最近料理の差し入れをした。
- 「おいしかった。さすが。」
- 「一食浮いて助かった。」
意外にも後者が格別にうれしい。この感覚をはっきり自覚したことは意外だった。
というのは20代の頃の自分だったら前半にしか興味をもたなかったから。それはたぶん自信がある料理だとしても、やはり同時に不安だったからかもしれない。そして認められたい、褒められたいというのが多分にあったからだろう。というか8割くらいそれだったかもしれない。職業にしているのにおいしくないもの出せないっていうのもあるし。
でも40近くなって上記のように感覚と価値観が変わった。
理由の一つは、公私ともに料理経験が増えるにしたがって自分の腕に自信を持つと同時に自分の腕のほどを知ってしまったこと、かもしれない。
出来栄えをかなり客観的に自己評価できるようになり人の反応で確認する必要があまりなくなったのもあるかもしれない。
でもそれだけじゃない気がする。
それだけだと
「さすが。おいしかった」≦「助かった」
にはなっても
「さすが。おいしかった」<「助かった」
までにはならない気がする。
でなんで助かったのほうがこんなにうれしいんだろうと思ったら、
たぶん毎日晩御飯を(職業としてではなく)必ず作るという大変さを味わったからかもしれない。厳しい家計で食費をやりくりする大変さも味わってきたからかもしれない。
もっとも私ごときは何十年もそれを続けてきた日本中のたくさんの方々には足元にも及ばないけれど。
あとは人間は単純に年齢を重ねると変化していくものなのかもしれない。
料理の仕事には2種類あると思っている。
- 「特別」を提供する…専門店、行事で利用する店など
- 「日常」を提供する…給食や定食屋、チェーン店など
私はほとんど後者に携わってきたからこういう感覚が強くなったのかもしれない。実際やっていた頃は専門のシェフなんかと勝手に比べて劣等感とかをもっていたけど。でも自分にとって結果的に間違っていなかった。「助かる、助かった」と言われる方がうれしいのだから。同じような理由で給食を選んだという人とじっくり話したこともある。社会貢献したいという気持ちが強いようだった。
専門料理にいまいち興味を持てなかった理由のひとつに、定期的に食べられるのは一部の金持ちだけ、というのがあった。もちろん「特別」「高級」を作る仕事も必要だしすばらしい。でも自分がやりたいとは思わないところは変わらない。
近年ボランティアで手作り弁当を配布したり炊き出ししたりとかのニュースをよく見る。料理に限らず必要とされることをすること。
個性を生かすとか好きを仕事にするとか、そういう流行りの仕事観に振り回されず、ただだれかの必要を満たすっていう幸せ。たとえその仕事がだれでもできそう、いくらでも代わりがいそうに見える仕事だとしても。「受けるよりは与える方が幸いである」(聖書)、そう感じる瞬間を少しでも増やせたらいい。あと「いつもありがとう」や「助かっています」は言えるときには言っていきたい。
コメント