料理の自由度が上がりレシピも簡潔になった一方で「今が限界か…」とも思ったり

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籠に盛られた緑や紫など色とりどりの野菜。

今の料理レシピは自由度が上がり簡潔になったなと思う。

その原因は3つあると思う。

  1. インターネットやSNSの発展…優れたアイディアが広まりやすい。料理の「常識」や「権威」にとらわれない人の柔軟な発想が多くなった。特に皆時間がないため無駄をそぎ落とした簡潔なものが求められている。
  2. 便利調味料の普及…めんつゆなど便利でおいしいものが多くなった。煮物なんかは水とめんつゆに野菜を入れて火にかけておけばできる。こういうものがレシピ上でも市民権を得たために簡潔になった。またそれら便利調味料をどう応用するか、という視点もでてきて料理の自由度が上がった。
  3. 食材のクセがなくなったこと…この記事では主にここについて書きたいと思う。上の2つは言うまでもないというか、意識していなくても感じられることだからだ。

この記事では、材料があまりにも食べやすくなると料理や食が寂しくなるかもしれない、ということを書きたい。贅沢な話だし、自分でもそれは考えすぎだろと思ってしまうような話だが。

まずは食材のクセのなさと料理の簡潔さ・自由度の向上について。

目次

食材のクセがなくなったこととレシピの変化

昔に比べたら食材、特に野菜のクセがなくなって食べやすくなった。

と言っても私は80年代生まれで料理を勉強し始めたのは90年代だ。だからそこまで昔のことは知らない。それでも20年前、30年前に比べたら人参やピーマンはとても食べやすくなったと感じる。また先輩や母の話などを聞いてきた限り昭和時代に比べたら圧倒的に食材のクセがなくなったのは間違いない。

食材の均一化と個性の埋没化

ただ食べやすくなるというのは食材の均一化あるいは個性の埋没化とも言える。

やっぱり代表例は野菜。野菜は本当にクセやアクが少なくなった。それによって下処理が不要になった。

昔は大根は米のとぎ汁で下茹でするだとか、ごぼうは酢水にさらすとかあった。もちろん今も食材の質や料理の目的によっては有用だ。ただ今はそういうことは気にしなくても食べられるし、栄養素の損失やガス代・調味料代などの弊害と天秤にかけたらどちらがいいのか微妙に感じたりする。

養殖のえびなんかもそんな気がする。ちょっと前のむきえびのほうが臭みとかクセがあった気がする。だから塩や片栗粉や酒なんかでの下処理が必須に感じた。今は下処理しなくてもそこまでまずくはない(その代わり味もない※後述)。

※もっともいずれの例も単に私の味覚が鈍くなっただけかもしれない。

まあともかく昔は「おいしく安全に食べるにはほぼ絶対」とされていた下処理が今は省略可能になった。このことによって料理工程は簡潔になった。

クセがないからどんな料理にでも使える食材たち

そしてレシピの自由度が増した。なぜなら下処理しなくても大丈夫なほどクセがないということはどんな料理にでも使えるということだからだ。

個性が強いままの食材だとどうしてもその素材が合う料理、合わない料理というのは限定される。特に香りや苦みなどが影響を及ぼすからだ。でも角がとれた食材ならば正直何にしても少なくとも邪魔はしないわけで「ぴったり」とはまではいかなくても「普通においしい」くらいにはできる。

一方でもし今以上食材が食べやすくなってしまうと少しさみしい気もする。さみしいというのは人間が感じられるセンサーの幅に対して料理側が狭くなるという意味だ。人間の嗅覚や味覚センサーの多さはすさまじい。「そこまで必要か」というくらいだ。つまりせっかく豊富に備わっている受容体に対しての機会損失という可能性だ。

例えば春菊の強烈な風味とか、根菜類の土のかおりとか。それが春菊でもほうれん草でも一緒となってきたらちょっとさみしい。飽きやすくなる。

先述の養殖えびなんかもそうだ。下処理しなくてもまあまあ食べられるかもしれないが、逆に味がそもそもない。ちょっと危機感を覚えるほどだ。100円の回転ずしもクセなくぜんぶがおいしいとも言えるが、逆に言うとどれを食べても同じような感じになってきた。もっとも100円寿司は以前からそうだったが、近年それに輪をかけて「ぜんぶ一緒」に感じる。

果物もそうだ。最近の果物は甘くておいしいが今以上になると糖度の限界を超えてしまう気がする。甘さが強くなるということはそれぞれの果物が持つ香りや酸味や苦みの影響力が相対的に小さくなる。

「食べやすさの限界」を感じたりもする今日この頃

画一的な教育によってあまりにも「いい子」を大量生産してしまうと個性の埋没が進んでしまう気がするのに似ているかもしれない。

どんな会社どんな業界に入ってもそこそこうまくやっていける人材を育てるのはいいことかもしれない。でも限界というのはあるし、それによって強烈な個性や天才が潰されているという弊害の可能性についても考える必要はある。

でも「じゃあ昭和の野菜に戻ってほしいか」というと「戻ってほしくはない」。ただ今よりも「食べやすさ」が進化しなくていいもう十分、というか限界だ。これ以上進んでしまうと、せっかくこれほどバラエティに富んだ食材が獲れる地球の恩恵とそれを感じられる人間のセンサーを最大活用できなくなりそう、とか考えたりしている。

人間なんてもともと偏りがあってなんぼ

人間はある程度偏りがあったほうがおもしろいと思っている。だから食べ物も強烈な好き嫌いがあっていいしだから楽しい。

くさやとか特定のチーズとかの食べ物はその土地で慣れ親しだ人でないと食べられないほど超個性的だ。でもそういう食べ物ほど、好きな人は病みつきになるほど愛していたりする。まあこれは加工品の話になってしまったが。

野菜に話を戻すと、今は「嫌いな野菜」が減った代わりに「強烈に好きな野菜」も減っている気がする。まあ野菜は昔から比較的嫌われているし、いろいろな野菜を食べたほうが体にもよいと思うので今の状態を否定する気はない。むしろありがたい。

ただ今以上にどん欲に甘さやクセのなさを追求してしまうと「なんでもおいしいけどなんか飽きた」という状態になってしまうのかもしれない。

いやこれ杞憂かつ贅沢すぎる懸念かも。世界的な食糧難の時代だし。現実にこんなめんどうくさい話聞いてくれる人いないのでネット上での独り言です。

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