むかしから「料理は真心」とか「心を込めると料理はおいしくなる」とかよく言われます。
「…意味が分からん」ずっとそう思ってきました。なんだか非科学的というか論理性がない気がしていたからです。素材や技術がすべてなのではないかと。
ただ最近この言葉の意味がやっとわかるようになりました。もっとも「悟りを得た」とかではなく、自分なりの解釈にすぎません。たぶん人それぞれの解釈があるのだと思います。あくまで自分の一例として記事にしてみようと思います。
ちなみに私は調理師免許をとって20数年。調理の仕事を15年以上してきました。今は料理を仕事にしていないので、毎日母と自分のごはんを作っています。
「料理は愛情」を具体的に言うと…
当然ですが料理をしながら愛情を込めようと念じると魔法のようにおいしくなる、なんてことはないはずです。
でもだからといって作り手の心が料理に影響を及ぼさないわけではありません。
「料理は愛情」「料理は真心」についての私なりの現時点での答えは以下です。
愛情や真心を持つことにより、
前もってよく考え、真剣に丁寧に作業するようになる。
分解すると半分は考えることで、もう半分は作業すること、という形になります。前半はプラスを生み出すこと、後半はマイナスを避けることです。
前半の考えてプラスを生み出すには以下が含まれます。
- 食べる人の側になりきって考える
- 献立と食材のことを考え続ける
これは真剣にやろうとすると口で言うより何倍も大変なことです。単発ではできますが、毎日続けることが難しいです。
特に家族の場合相手のことを知るほど考える材料が増えます。つまり及第点をとるのは楽になる反面、最高点を目指すと大変にもなります。店で言えば毎日客を観察・分析し続ける必要が出てきます。
献立と食材について言えば、毎日夕方になってから晩ご飯を考え始めるとベストは尽くせないことが多いです。前もっての下ごしらえや在庫食材を最高レベルで使い切るという取り組みができないからです。私はだいたい行き当たりばったりなので愛情や真心が足りないです。特に食材への感謝や料理そのものへの愛が足りないことはよく自覚させられます。
このように愛情を原動力として一生懸命考えるとプラスの効果が生まれやすくなります。
後半の丁寧に作業してマイナスを避けるというのは、言い換えれば集中です。
料理は慣れるほど片手間でもできるからです。車の運転にも似ているかもしれません。だからこそ集中が必要です。また嫌々であっても形にすることはできます。だからこそ集中が求められ、集中し続けるには愛情が必要です。仕事ならともかく家事なら特にそうです。
集中ややる気が一定のラインを下回ると失敗したり、完成度が低くなる確率が上がります。車の運転における事故やヒヤリハットと似ていてあくまで確率の問題です。
なお集中して料理するというのは、必ずしも「ながら」料理してはいけない、という意味ではありません。別におしゃべりしたり音楽を聴いたりしながらでもよいです。要は料理に傾けるべき集中のラインを下回らない(ポイントを外さない)ことです。
愛情を原動力として丁寧に作業することでマイナスを避けることができます。
よく考え、丁寧に作業することは愛情抜きでもたぶん可能です。ただその原動力として愛情や真心は有力であるというだけです。特に家庭料理の場合は他に原動力がほぼないですし。
愛情や真心は受け手がいないと現れない?
愛情は一方通行ではありません。まあ一方通行でもいいのですが、ちゃんと成立した形になるには受け手が必要です。もっとも食べ手の勘違いや幻想により、無いはずの愛情や真心が生み出されてしまう可能性もありますが…(仕事上経験あり笑)。
ともかく食べる側にも料理を食べることへの集中が必要です。「孤独のグルメ」みたいな感じです。スマホをいじりながらさっさと胃に入れてしまおうという感じだと愛情や真心は受け取れません。細やかな工夫や丁寧さに気づかないからです。
逆に言えば気づかないなら意味はない=つまり料理に愛情など必要ない、と断言する人がいればそれはその食べ手にとっては真実であり、何も間違っていないということです。食に関心が無く、食事は生きるための作業という人もいます。
愛情は押し付けるものではありません。それでも愛情を込めるのはプロや家族を愛する親であったりするのかもしれません。また食への関心が低い人がそれと気づかず満足したり不快な思いをしないようにするのが愛情や真心なのかもしれません。
「料理は真心・料理は愛情」が成立する条件
上のようなことを考えてくると「料理は愛情」が成立するにはいくつか条件があることがわかってきます。たぶん他にも要素はありますがとりあえず思いついたことです。
- ”ある程度”料理慣れしていること
- 毎日誰かのために作り続けること
- 機械のようにマニュアル化しない・できない料理であること
- なるべく加工の少ない食材・シンプルな調味料を使うこと
- 食べる人も食に関心を持つこと
1.”ある程度”料理慣れしていること…例えばあまりにも料理初心者すぎると考えるための土台がないですし、丁寧に作業しても根本的に未熟すぎるので愛情による影響がほぼ表れてきません。逆にあまりにも熟練すると愛情なんて関係ないくらい完成度が高くなり失敗とは無縁になるはずです。
2.毎日誰かのために作り続けること…単発の作業なら真心がなくてもよく考え集中できますが、毎日それを続けるには食べ手と料理そのものへの愛がないと難しいです。
3.機械のようにマニュアル化しない・できない料理であること…ファストフード、また反対に専門性がとても高い料理の場合、真心や愛情の出る幕がないかもしれません。考えることがすでに済まされており、また丁寧に作業しなくても成立するほど完成されたシステム、あるいは熟練した技術があるからです。
4.なるべく加工の少ない食材・シンプルな調味料を使うこと…加工度の高い食材や強力な調味料などを使う場合も同様です。考えるという工夫はすでに行われており、強力な調味をするなら食材の微妙な違いを見極める必要もないからです。
5.食べる人も食に関心を持つこと…前項で書いた通り心を感じようとする受け手がいたほうが愛情が「伝わった」感じになります。
こうしてみると現代は「料理は愛情」「料理は真心」が成立しないケースの方が多いかもしれません。
昔は手に入る情報や加工品などが限られ、手作業も多かったため作り手の心が結果に占める割合が高かったのではないかと考えています。
一例として野菜などはアクが強く甘味が少ないためそれぞれの下ごしらえ次第で味が大きく変わりました。今は農業のレベルアップにより最初からおいしいものがほとんどです。また加熱や加工においても時間をかけない代替手段が増えました。包丁による手作業も減りました。
また作り手の心が反映される度合いはゼロか百かではなく程度があります。そして「料理は真心」というフレーズが持つインパクトに対して実際の相関は低いのだと思います。
料理科学と「料理は愛情」の関係性
料理は真心とか愛情というフレーズに反発したくなる人は科学的・論理的な人が多いかもしれません。最近は私が調理師免許をとったころに比べるとずいぶん料理科学の情報が充実してきました。
で、料理を科学的にとらえようとすると「料理と心」という関係は否定すべきものに感じます。でも実際にはそもそも否定する必要もなく、別々にとらえるべきことです。
まず料理科学の知識を得ただけでは料理はあまりうまくなりません。そして料理科学の本を読めば読むほど、解明されていないことが多いという事実に気づきます。結局献立や食べ手のことをよく考え丁寧に作業するという価値はほとんど下がっていません。ただこれは現時点の話で、未来にもっともっと料理科学・その他の科学技術が発展し、実践もできるようになったら愛情の影響力はますます下がるのは予想できます。
料理科学によって「料理は愛情」が裏付けされた面もあります。
例えば単に時間をかけるという点(※「やさしい味」と表現される料理の代表として時間をかけたスープや煮込みがあります)。下ごしらえをして寝かせる時間、あるいは弱火で時間をかけて加熱すること。これらによって短時間で済ませた場合より化学的においしくなることが分析・証明できるようになりました。あるいは発酵など微生物との丁寧で根気のいる付き合い方。
この「時間や手間をかける」は一例ですが、けっきょく心を込めないと逆に実践するのが難しいことは多いです。昔は食べるためあるいは生きるために必要だからやっていたのかもしれません。今はやらなくても一応大丈夫な加工が多いです。それをわずかな味の向上のためにわざわざやるのは食べる人や料理そのものへの心があるということになるのだと思います。
ただしもちろん「料理がこうなのだから愛情がある」という愛情の証明にはなりません。これに関することを最後に書きます。
「料理は愛情」がきらいな理由
最後に「料理は真心・料理は愛情」という言葉がなぜ嫌いだったのかを考えてみたのでそれを書いておこうと思います。その理由は二つあります。
- 愛情という魔法のスパイスが存在しているかのような幻想がある
- 愛情=料理という逆転の押しつけ感がある
①愛情というスパイスが存在する幻想
私が調理の学校を卒業した20年以上前はおそらく現在よりも根性論や精神論が重視されていました。たとえば何年修業したかという年数そのものが内容以上に評価されていたり、化学調味料を絶対禁止技のように言う先生がいたり、といったこともありました。質問に対して論理的な答えではなく「経験です」とか「昔からそう決まっています」というのが大まじめにまだ通っていた時代。
そして心を込めると”魔法のように”美味しくなるという哲学が確かに存在していた気がします。
そんなわけありません。この記事で書いたように愛情が実態としての料理に反映されるには過程があるはずです。考えたり動きが変わったりしてはじめて愛情が料理に影響を及ぼします。
ところが料理は真心・愛情というのをあまりにも単純化しすぎて、おいしくなーれと念じると本当に美味しくなるかのような勘違いが生まれました。
料理は念を込めると美味しくなるみたいな幻想は思考の放棄につながるのでむしろ有害な可能性があります。念を込めるのではなく思考を凝らして工夫し、丁寧にそれを実行することで実体としての料理を向上させる方が有益なのは間違いありません。
ちなみに「おいしくなーれ」はまったくの無駄とは言えません。そのセリフによって美味しくなることはないですが、集中力を保って動きを雑にしてしまうマイナスを防ぐ意味はあるからです。これは自分の調理経験上主張することができます(仕事で毎日毎日同じ作業をする人ならわかることが多いはず。家庭料理ならほぼ100%意味はない)。ただ「おいしくなれと念じるとプラスの効果が生じる」と捉える人がいると非科学的でおかしい、というふうになります。
②愛情=料理という逆転の押しつけ感
「料理は愛情」という言葉は手料理の価値を説くためにも使われてきた気がします。
ただこれって大抵料理が好きで料理に手間や時間をかけられる人が言うセリフです。つまり愛情とは料理にあらわれるもの、という押しつけ感がどこかあるのです。
もちろんこれはうがった見方ですが、料理が嫌いだったり時間が無かったりする人からしたらたぶんそう感じると思うのです。
別に料理以外にも愛情表現ってたくさんあります。得意なことやできることはひとそれぞれ違います。ただ料理は重視されすぎてきました。
例えば車の送り迎えをしてくれることが愛情という人もいるかもしれません。でも車がなかったり運転できない人はもちろん多いです。でもそれによって愛情がないとは言われません。
料理も本来同じようなものです。ただ母親=手料理みたいな昭和の図式が出来上がってしまった弊害として「料理は愛情」が拡大解釈・逆転され「愛情は料理(ではかれる)」みたいになってしまったのかな思います。
料理は愛情とか真心とか言う人は常にビジネスです。
料理人、料理研究家(主婦という触れ込みでも表に出た瞬間から仕事)、ドラマの脚本家、小説家・マンガ家、インフルエンサー…他みんな。
料理によって対価を得ている人に心の話をされても説得力ありません。
なお料理の原動力は愛情でなくても成立します。つまり自分のプライドやお金とかでもいいのです。料理人のコンテストとか見ていると、原動力は真心や愛情ではないな…とつくづく思います(もちろんゼロとは言わない。ただ功名心など利己的な原動力が多く、純粋な愛情のみにくらべて不純という意味)。名声や高収入とは無縁の食堂のおばちゃんの方が愛情を感じるのはもっともです。
まとめ
ざっくり記事に書いたことを箇条書きでまとめました。
- 作り手の心が魔法のように良い影響を及ぼし味が良くなるなどはもちろんない。
- ただし心を込めることにより、よく考え丁寧に作業することになりそれが料理を向上させる、ということはある。
- つまり初心者など考える土台を持たず、技術が低すぎる場合心を込めてもほぼ影響はない。
- 現代はおそらく昔よりも作り手の心の影響力は低い。
- 料理科学が昔よりは発展したが、考えたり時間を使って丁寧に作業することの価値は下がっていない。
- 「料理は愛情」に反発したくなる理由として、魔法のような効果が信じられていたり、愛情の押しつけ感がある。
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